2019.01.06 Sunday
バカラ
昨日の夜、ワイングラスを割ってしまった。
キッチンで洗い物をしていて、ちょっと遠いところにある皿を泡のついた手で取ろうとした時、その間に置いてあったワイングラスに肘があたったのだ。
あっと小さく声が出て、真ん丸に見開いた私の瞳に映るグラスはみるみる遠ざかり、床に当たった瞬間、ほとんど粉々になった。なぜか丸いフット・プレートだけが無傷で残った。ステムを失ったワイングラスは、首のない美しい彫像サモトラケのニケを彷彿させた。
あぁ、時間を戻したい。
よりによって割れたのは、夫のエイデンが大切にしていたバカラのワイングラスだった。誰かからプレゼントされたものらしいそのグラスは、ペアではなくシングルで贈られたものだった。さらにフット・プレートには「Happy Birthday, Aiden」と流れるような書体で彫られている。
1月のトロントの夜はどこもかしこも凍てついている。
不思議な模様を描いて氷ついた窓にフットプレートをかざして、私は「Happy Birthday, Aiden」とつぶやいてみた。悲しい気持ちになった。
夫はこのバカラのワイングラスの存在を私に秘密にしていた。
しかし、私は知っていた。その隠し場所も。
夫は時々、真っ赤なギフトボックスからこの優雅なデザインのワイングラスを取り出して、深夜に一人ワインを堪能している。そして、その夜のうちにグラスを洗って拭いて、こっそり箱に収めているのだ。
私達は別々の寝室を持っていて、一緒に寝たり、別々に寝たりしている。別々に寝る日の深夜を見計らって、夫は浮気だけでなく、この家でそんな秘め事も楽しんでいたのだ。まったく癪に障る。
だから、夫が香港に出張中にこの憎き美しいグラスを取り出して、高いワインを買い込み、裏切りの償いよろしく、私も独り、楽しんだのだ。
昨日、夫からメールがきて、商談が難航しているので帰国が一日伸びるとあった。
嘘つき。さては女と一緒に香港に行ったのか、現地で合流したのか、あるいはその人は香港に住んでいる人なのか。私の想像力はリアリティを帯びてスピーディに広がっていく。
そして、気づいたら、あの赤い箱を開けていた。
夏、そう、あれは日曜の午後の妙な時間だった、「エイデンはご在宅かしら?」と女性の声で電話がかかってきたことが一度だけあった。夫の携帯ではなく、わざわざ自宅の電話に。
私の頭の中は真っ白になった。なぜなら直感で「この女だ」と分かったから。
彼女の声は透き通っていて、私のハスキーで濁った声とは正反対だ。教会の少年の歌声とヘヴィメタルのシャウトくらいの差がある。その澄み切った声が夫の名前を呼ぶ時、私の中に置き場のない嫉妬が泉のようにあとからあとから湧きあがった。
夫が浮気をしている時、実際にゲームで戦っているのは妻と愛人ではないだろうか。二人の勝負がどうなるのか、どちらが勝つのか、夫は為す術もなくただ見守っているだけなのだ。負けた方がすべてを失うのを、ただただ見ているだけ。まるでカジノゲームのバカラのようだ。夫は彼女にワイングラス以上の高価な贈り物をしたに違いない。それはいわば夫が愛人を勝利に導くための賭け金なのだ。
あの時、私は電話でその女に事務的な口調でこう言った。
「夫は今、屋根の修理をしていて手が離せないんですの。電話をかけなおさせますので、番号を教えてくださるかしら」
最後の言葉が言い終わらないうちに、プツっと切れた。
すぐその後に、ベッドルームから夫の携帯の着信音が家の中を震撼とさせるように鳴り響いた。
屋根の上にいる夫に聞こえていたかどうかは分からないが、彼が屋根から降りてくる気配はない。女の悲鳴のようなコール音が5回鳴った後、音がやんで、かわりにボイスメールが残されたサウンドが短く鳴った。ふいに静寂がきた。
私は、夫の携帯をつかんで叩き壊したい衝動が起こる前に、急いで財布と鍵をつかんで全速力で外へ駆け出して行った。
夫が屋根から何か声をかけてきた気がしたけれど、心が意識を失うほど近所のスーパーを目指して猛烈に走った。
その日のディナーで、夫はやけに饒舌だった。
仕事は今一番充実している、今日、屋根の修理をしていたら庭の木の上の方に鳥の巣があるのを見つけた、子供がいない僕らだが犬か猫か何かペットを飼ってみようか、延々と一人で陽気にしゃべり続ける。
そして、食後には自ら汚れた食器を片付けながら「冬に一度、出張で香港に行くけど、おみやげ何がいい?」などと鼻歌まじりに聞いてきた。
私は、別に何もいらないし、ペットにも興味がない、と素っ気なく答えた。
彼は悪びれたふうもなく、「そう?」と屈託のない笑顔を向ける。
私はそんな彼に他人のような違和感を感じて、乾いた視線を床に落としたものだ。
バカラの真っ赤なギフトボックスに収めるワイングラスがこの世からなくなってしまった。フット・プレートだけでも戻しておこうかと考えたが、結局それも情けない感じがしたので捨てることにして、空っぽのまま箱だけを元の場所に戻した。
次に彼がこのグラスを使おうとして箱を開けた時、ワイングラスがなくなっていることを発見したら、彼は私を問い詰めるだろうか。
問い詰めらている自分を想像したら、不思議なことにものすごくポジティブな気持ちになった。
ワイングラスが割れたことは、私とエイデンにとってはどこかへ向かう一歩になるのかもしれない。
翌日、夫が香港から帰国した。
ベッドルームで荷物を解きながら、「やっぱりトロントはいいな」と独り言のように彼は言った。「香港はとにかく人が多くてね」と苦笑いを浮かべている。
クイーンサイズのベッドが2つ並んだ私達のベッドルーム。汚れなきベッドルーム。嘘だらけのベッドルーム。
私は自分のベッドに腰かけて、ぼんやりと彼の動作を見ていた。私達は今、私達の最後の時間に向かっているのだろうか。
小さく首を振って視線を落とし、床を見つめていた私の視界に真っ赤なギフトボックスが飛び込んできた。
「おみやげ!」
彼がいつもの屈託のない笑顔で言う。
それは見慣れたあの真っ赤なバカラのギフトボックスだった。
開けるとペアのワイングラスが出てきた。
「いいだろ、これ」
そして、免税店でこれも買ってきたと言って、白ワインをサイドボードの上に置いた。
「す、素敵、本当に、す、素敵、ね」
すべてを見透かすようなクリスタルの輝きに圧倒され、私はその後に続く言葉が見つからず、酸欠の池の鯉みたいに喘ぐように息を飲みこむと、逃げ出すようにベッドルームを後にした。
冷たい水が喉に落ちていく。キッチンで無意識に水をごくごくと音をたてて飲んで我に返った私は、少しだけ落ち着きを取り戻した。次の瞬間、はっとして振り向くと、背後で夫が真っ赤な箱と白ワインのボトルを手にして立っていた。
一瞬、怪訝な顔をしたけれども、すぐに笑顔になって「今日は魚料理にしようよ」と言った。
「う、うん、そうね」
「確か、冷凍のシーバスがあったよね。あれを解凍して、そして、付け合わせは…」
冷凍庫の扉を開いた夫が、そこでふっと言葉を止めた。
扉の真下に妖しく鋭く光るものがある。バカラのグラスの破片だ。こんな大きな破片がこんなところに落ちていた。残された曲線がかつてワイングラスだったことを物語っている。
あの時のポジティブな気持ちはまやかしだった。
私は、このまま時が止まって、夫は二度と振り返らず、すべてがここで終焉したらどんなにいいだろうと祈りながら、夫の背中越しに、そのまばゆく美しい壊れたかけらを見ていた。